諏訪ブログ

ディープに諏訪を案内するガイドのブログ
2024年7月10日 坂間雄司

【坂間】諏訪大社は上下4社で1つ。でも、なぜ上下?

初めまして、SUWAエクスペリエンスのガイド、坂間です。ここで諏訪のことをさまざま書いていきますので、お付き合いください。

さて、初回は、諏訪大社のこと。

諏訪大社は全国1万社以上とされる諏訪神社の総本社、諏訪信仰の中心です。長野県の諏訪盆地の真ん中、諏訪湖の北にある下社春宮と下社秋宮、諏訪湖の東南にある上社本宮と上社前宮の計4社で成り立っています。 でも、よく考えてみると、なぜ上社と下社があるのでしょう?

〈諏訪大社上社前宮。4社の中で、もっともプリミティブな雰囲気。江戸時代直前まで、上社の大祝=現人神が住んでいた場所でもあります。〉

諏訪大社のHPでは、

〜諏訪大社はもともと、上諏訪神社と下諏訪神社という別々の神社でしたが、明治初年に国の管理となり一つの神社となりました。その名残が諏訪大社が『上社』と『下社』に分かれている由来です。一説には諏訪湖の南北や京の都に対して上方か下方かという事で『上社』『下社』となったとも言われています〜

上社と下社、元は別の神社。上下になっている理由は“一説には〜とも言われている”と断定していません。

諏訪大社ホームページ お諏訪さまについて

そう、実は、よくわからないんです。他にも、なぜ4社なのか?とか、下社はなぜ春宮と秋宮なの?とか、上社はなぜ本宮と前宮なの?とか、疑問だらけ、難問だらけ。

そんな中ですが、上社と下社、どちらが先にできたのか?については、かろうじてお話できます。

従来、上社が先と考えられていましたが、近年の研究ではそうともいえない、下社が先ではないか。先、という表現は現状では微妙で、諏訪大社(当時は諏訪神社)の成立において中心的だったのは、下社のある下諏訪、岡谷の湖北側ではないか、と考えられています。

これは、以下の理由から。神社の成立は7世紀頃、中央の主導によります。諏訪の中央寄りの有力者の足跡は下社側に複数あります。たとえば、下社の秋宮近くに前方後円墳がある。下社がある下諏訪町の隣の岡谷市に、奈良時代の諏訪郡の役所と考えられる遺構が出土している。また、下社の最高神官を代々務めた金刺氏の出自が中央由来であるなどが挙げられます。

〈下社秋宮近くの青塚古墳。諏訪唯一の前方後円墳で、6世紀後半〜末の築造。被葬者は不明ですが、金刺氏につながる有力者では?と考えられています。〉

ちなみに、僕は岡谷市の出身です。上社が先か、下社が先か、という命題については、もちろん下社側。もっというならば、諏訪大社(神社)の創建に当たって中心的な役割を果たしたのは岡谷を地盤とした勢力では?と考えています。ま、この話はまたいつかどこかで。

以上、歯切れが悪くて申し訳ないのですが、それは諏訪大社が日本最古級の神社であるが故。言い換えれば、諏訪大社には、諏訪には、謎がある、不思議がある、ロマンがあるのです。

このブログで、あるいはツアーで、そうした謎や不思議にもお応えしていきたいと思います。

※掲載の内容については諸説あります。

坂間 雄司

坂間 雄司

スワニミズム、大昔調査会、諏訪考古学研究会会員。suwazine***編集長。コピーライター。諏訪地域にある岡谷市の街歩き「おかやるく」(岡谷市商工会議所主催)のガイドを長年にわたり務め、マニアックな内容をわかりやすく、楽しく伝えることで知られる。諏訪の縄文遺跡をかつてないスタイルで紹介した“あのスゴイお宝が出たのはココですガイド”を企画・制作。信濃史学会の会誌“信濃”に諏訪信仰に関する論考を寄稿するアカデミックな面も。インドア好きでコミック好きな一方で、西表島で巨大なGTを釣っている。