諏訪ブログ

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2025年1月20日 坂間雄司

【坂間】御渡りの疑問。上社から下社へ凍った諏訪湖を渡った建御名方神(タケミナカタ)は、その後帰ってこないの?〜平安時代の御渡り観から

大変遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

新年を迎え、諏訪は寒さが本格的に。毎朝の気温が気になります。というのも、どれぐらい寒いのかを知りたいだけではなく、冬の諏訪には、諏訪湖の御渡りがあるから。

御渡りは、諏訪大社の神様が凍った湖上を渡ってできると伝えられ、平安時代には都でも知られていたようです。

ちなみに、御神渡りとも書かれますが、かつては御渡りと書いていました。“神”の文字を使わなくても、諏訪湖を渡られるのが“神”であることは明白だったから、“御渡り”としていたようです。そんな神聖な御渡りですから、凍った諏訪湖が割れて盛り上がればOK、というわけではありません。八剱神社の宮司と総代の皆さんが観察を続け、一之渡り、二之渡り、三之渡り(佐久の渡りとも)の3条の亀裂が確認できて初めて、御渡りの成立となります。
この観察の任、八剱神社の皆さんは江戸時代の1683年から続けていらっしゃいます※1

今年も小寒の1月5日から観察を始め、立春の2月3日まで続きます。僕も朝5時に起き、初日の1月5日、−6.8度の気温の中、拝見してきました。宮司によれば、今冬は昨冬よりも寒いとのこと。もしかしたら、があるのかもしれません。

《写真A−1,2》

《写真A》2025年1月5日小寒、八剱神社の皆さんによる御渡り観察。日の出前の一番冷え込む時間帯に行われます。八ヶ岳方向から登る朝日のほのかな暖かさのありがたいこと。

さて、冒頭で御渡りは神様が凍った湖上を渡ってできると書きました。もう少し詳しく書くと、諏訪大社の神様、建御名方神が上社から下社にいる妻の八坂刀売神(ヤサカノトメ)の元へ通うためにできると伝えられます。それでですね、実は以前、こんな質問をいただきました。

「上社から下社へ渡った建御名方神は、その後どうしたんでしょうか?」

言われてみれば、確かに。色々調べてみると、その答が平安時代の和歌にありました。
“すわの海の氷の上の通い路は、神の渡りて解くるなりけり”(平安後期11051106年頃/源顕仲)

“春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ(平安末期12世記後半/西行)

1つ目の後半、御渡りは神様が渡ると溶けてしまう、と歌っています。なんだか変ですよね。御渡りは厳冬期に諏訪湖ががっちり凍って厚い氷ができて出現するのですから。
2つ目は、春を待つ諏訪の渡りがある、と書いています。

これ、当時、御渡りには冬の厳冬期の渡り=“上社から下社へ渡る”ものと、春前の渡り=“下社から上社へ戻る渡り”があったと考えられていたようなのです。
同じ御渡り観が江戸時代にも残されています。
“氷橋。冬諏訪湖凍る時、みわたりとて、狐わたりそめて、その後人馬氷のうえを通路す、春また狐渡れば通いを止”(江戸中期17411744/菊岡沾涼)

江戸時代、御渡りは狐が渡って起こるとされました。それはさておき、注目は最後の一文、“春、また狐渡れば通いを止”=春、ふたたび御渡りができたら、諏訪湖が溶け始めるので人馬は渡るのをやめる。

これでさらにはっきりしました。御渡りは、冬の行きと、春前の帰りがあったと考えられていたのです。建御名方神は下社へ行きっぱなしではなく、春前に下社から上社に帰っていた。よく考えてみれば、このお話の方が自然ですよね。平安時代の方、さすがです。
もしかしたら、一之渡り、二之渡りという呼び名は、当初、一之渡りは行きの渡りで、二之渡りは帰りの渡りだったのかもしれません。では、三之渡りは何?と、気になることが次々。実は御渡りも謎が多く、時代によって捉え方も変わっています。それは、また、いずれ。

《写真B》2018年の御渡り。かつては1m以上も盛り上がったといいます。氷もかなりの厚さがあり、戦車が走行できたとか。今年はまずは全面結氷を、そして厚さが10㎝程になれば…。 

しばらくは、寒い寒―い日が続きます。今冬、御渡りは、諏訪の神様は、私たちの前に現れてくれるのでしょうか? 凍えるのはイヤですが、一方で期待もしています。

2月のスワペリのツアーでは早朝の御渡り観察に同行します。他にも諏訪ならではの場所、おいしいものなどもお楽しみいただけます。ご参加、お待ちしています。

※掲載の内容は信濃史学会の会誌第75巻第5号の拙稿「1000年の変遷に見る、諏訪湖・御渡りの本質」によりますが、諸説あります。

※1:御渡りの公式記録そのものは1443年から600年近く続く連続した気象記録として世界的に注目されています。なお、筆者の調べでは、1329年に北条高時の残した”大宮御造営之目録”に〜次御渡注進之使者、上社神人不丸興、下宮小井河在家番ニ廻勤之〜の記述があり、鎌倉時代から記録されていたのでは?と考えています。

 

 

坂間 雄司

坂間 雄司

スワニミズム、大昔調査会、諏訪考古学研究会会員。suwazine***編集長。コピーライター。諏訪地域にある岡谷市の街歩き「おかやるく」(岡谷市商工会議所主催)のガイドを長年にわたり務め、マニアックな内容をわかりやすく、楽しく伝えることで知られる。諏訪の縄文遺跡をかつてないスタイルで紹介した“あのスゴイお宝が出たのはココですガイド”を企画・制作。信濃史学会の会誌“信濃”に諏訪信仰に関する論考を寄稿するアカデミックな面も。インドア好きでコミック好きな一方で、西表島で巨大なGTを釣っている。